佃島盆踊の感想
(2000/7/15)
佃島盆踊の感想
(2000/7/15)
 2000年7月15日、佃島へ盆おどりを踊りにいった。 この盆おどりは毎年、7月13日から15日までの盂蘭 盆の3日間、東京都中央区佃島にておこなわれてい るものである。

〜地図〜

 「佃島」といってもあまり島という感じはし ない。江戸時代には浜から少し離れた東京湾上に 浮かぶ島であったのだろうが、今ではすっかり一 帯が埋め立てられている。この佃島自体も江戸の 都が開けてから埋め立てによって作られたものか もしれないが、そのあたりの事情について詳しい ことは調べていない。隣接する埋め立て地とは海の なごりの運河で隔てられおり、そのうえを数々の橋 がまたいでいる。北側の陸地がこれまた「島」を名 乗る「月島」である。地下鉄有楽町線の月島駅もあ り、交通の便にも恵まれている。そもそも佃島や月 島は銀座あたりからまっすぐ東に道路を走れば10分 ほどで着く位置にあり、名前から受ける印象とは裏 腹にずいぶんと都心に近いところにある。
 にもかかわらず、この"島"の雰囲気はやはり独特 である。

 2000年7月15日17時すぎ、地下鉄有楽町線の月島 駅に降りる。同行するのは東京在住の千葉研二で ある。研二とは、岩手県盛岡市で岩手大学の民俗 芸能サークル「ばっけ」でいっしょに踊っていた 仲である。私とはとても仲が悪い。
 月島の地下駅から地上にあがるとにわか小雨が ぱらつきはじめている。今晩の踊りがどうなるか 心配だが、缶ビールを買って辺りを散策すること にする。
 私が佃島に来るのは7年目。以前に来たのは高校3 年のころだった。当時は東京在住でやはり高校で民 俗芸能を踊っていたが、東北地方の踊りばかりに取 り組んでいて地元である関東地方の芸能を知らない 自分に疑問を感じ、都下の様々な芸能を見てまわっ ていたころであった。
 7年前の記憶はあいまいになっていて、月島から盆 おどりの会場までどう行ったらよいものだかさっぱ り思い出せない。「佃島」という町には入ったもの のそれらしき雰囲気にはいきあたらず、まずは休憩 がてら目に付いた公園で研二と乾杯することにする。 この公園はずいぶん真新しい。2方の視界を高層マ ンションが遮っている。人工的な"せせらぎ"。群れ ている小学生の坊主。…群れるといえば、雪駄ばき の足には早くも蚊が集まってきている。
 ゆっくり一缶あけたあと、研二の地図を頼りに目的 地へ向かう。これから向かうところが本来の「佃島 」で、私たちがぐるぐる迷っていたところは町名こ そ佃島であれ、後程埋め立ててつくられた土地のよ うである。「本来の佃島」だけ運河に囲まれている ことが、それを物語っている。商店街を抜けて、角 をまがってゆくと…。
 目の前に太鼓橋がある。
 その先が周りの商店の雰囲気にしては妙に太い通 りになっており、すぐに堤防でつきあたりになって いる。その通りの真ん中にはやぐらが組まれている。 佃1丁目。ここが佃島である。
 太鼓橋をわたる。異なる世界。異なる時間。堤防 につきあたるところには供養の為の壇が臨時に据え られており、野菜が供えられている。「無縁仏」と いう札がかかれている。線香をあげて拝む。研二は ずいぶん長いあいだ手を合わせている。何を祈って いるのか。
  数軒ある佃煮屋で佃煮を買い込んでから、いっ たん友人を迎えに月島駅へいく。ふたたび会場に戻 ると、早くもやぐらにはおやじが上がっており、太 鼓を叩きながら唄っている。が、踊り手は一人もい ない。通行人もまばらである。ラムネなどの露店を 表に出している商店の奥さんにきくと「8時からが 大人の時間」とのこと。まだ6時をまわったところ で、早すぎる。友人もいろいろと加わって大所帯に なったので、腹ごしらえに月島へもんじゃ焼きを食 べにいく。
 すっかり日も落ちて8時をまわり、三たび会場へ 。こんどは人もいっぱいになっている。50名ぐら いの人たちがやぐら囲み、円をつくって踊っている 。お囃子・唄は一人でやっている。右手にばちをも ち、斜めに倒した太鼓を打つ。そして左手にはマイ クを持って唄う。踊り手は子供、20代前後の若い 女性、中年から年寄りまでの男女が入り交じってい る。民舞をやってそうな人はいない。着ているのは 浴衣もあり、洋服の普段着もあり。が、野球のユニ フォームを着た若い女性など妙な格好の者もいる。 これは、毎年最終日の7月15日には仮装をするという 風習があるためである。
 踊りの型も様々。手先を伸ばしてピシッと踊る人。 シナをつくる人。お子様っぽく訥々と踊る人。地面 を蹴るような「粋な踊り」をする人。厳密な型はな いようである。7年前に来たときには近くにいた人 から「早すぎる!もっとゆっくり!」としかられな がら踊ったものだが、あまりお囃子とずれたことを しなければ細部にはこだわらないのだろう。踊りは ゆっくり。円の回転は左回りだが、ステップの関係 上、こちらもなかなか進まない。直径20メートルぐ らいの輪を半周するのに10分もかかる。
 20分ぐらい踊ったあと、休憩。輪がくずれかけた ところで研二が「いや〜けっこう難しいねえ」と話 かけてくる。すると、やぐらに寄っていこうとした 地元の40〜50代の男性が足をとめて「どこら辺が難 しかった?」ときいてくる。「単純だけど、それが かえって難しい」という研二の答えをきくと、この 男性が待ってましたとばかりに語り始めた。
 
「そのことに気がついたあなたは、なかなかするど い。確かにこの踊りはとても単純で踊りそのものを 覚えるのは3分もあればできる。だけど本当にうま く踊ろうと思ったら、30年、40年とかかる。生きて いく中でその人の中に積み重なっていくものだから。 そこに無縁仏があるでしょう。あなたたちにも帰り にはぜひお参りしていってほしいんだけど、そうい うものを弔うおどりです。何百年前に江戸の大火が あったでしょう。"八百屋お七"で有名だけどね。そ のとき焼け出された人たちの遺体が、みんなここに 流れ着いた。
 それから、五十数年前の3月。東京大空襲のとき も、同じ。東京の町の亡くなった人たちがみんなこ こに流れ着いた。だから無縁仏。死体を預ったこと ある?あなた達は若いから、ないかな。水死体って いうのはね、こうブクブクと腫れあがって本当にひ どいものですよ。
 そういう世の中の色々な苦しみや楽しみがこめら れいている踊りだから、すぐにうまくなれるもの ではない。だけど、若いからダメとかそういうこと ではない。日本の社会っていうのは出る杭は打たれ るというのかな、若い人たちが何かやろうとすると すぐに"そんなこたぁやるもんじゃねえ"っていって 抑えつけてしまうようなところがある。ところがこ こらへんの江戸の人たちっていうのは違うんだよね。 若いもんが無鉄砲なことやるってなると"おー、そう か、やってきな、そいつもまた勉強だ"って言って。 自分の知り合いにも大学が受からなくて何年も浪人 している若いやつがいるんだけど、そういうのにも 言ってやってる。まだまだ先が長いんだから何遍だっ てやりたいことやればいいんだって。周りはいろ いろ言うかもしれないけど。
 そういうのが江戸っ子の心意気だと思う。この踊 りについても、そういった思いが含まれているとい うことを知ってもらって、ここに来た人がまた自分 のところで広めていってくれたらと思う。形はマル じゃなくて四角でも三角でもいいと思う。新潟か長 野かどっから来たかしらないけど、何かしら感じて 帰ってやってもらえたらいいと思ってる。
 こういうものを伝えていくにはそれなりに大変で す。やぐらを組んだり提灯をつけたり。でも、毎年 7月15日、9時に踊りが終わって人がひけて、すっか り後片付けをするでしょ。そして電気を消すと、一 瞬、辺りがしーんとする。ほんとにわずかな時間。 1分…いや、30秒ぐらいかな。この瞬間が応えられな いんだね。"今年も無事終えることができました"っ ていう」

 そしてひとしきり話たあと、この男性は盆踊りの 由来について書いたパンフを渡してくれた。この盆 踊りを伝承する組織の役員をやっているのだろう。 やぐらのほうから声がかかり、急ぎ足で向かって いった。こんどはこの男性が唄を担当するのかと思 うと、そうではない。先ほどと同じ唄い手がまた唄 いはじめた。また輪ができる。辺りの話をきくと、 この唄い手は酔っ払いだとのこと。たしかにリズム が狂ったり唄が途絶えたりするところもある。踊り が続く中、参加者みんなに「佃島盆踊り保存会」の タオルが配られる。踊りも終盤にちかづき、歌い手 が「あまり下手な唄を長くやると怒られるのでこの 辺りでやめます」という旨の歌詞を唄う。「まだま だーっ!」と踊り手からは声がかかるが、これで終 わり。
 最後に、自分へのいくつかの問題提起を含めた感 想。
 この佃島の盆踊りは都だか国だかの無形文化財に 指定されている。たまに、よそでは指定を受けた芸 能について「いや〜、あそこの芸能は○○の指定 を受けてるからすごいんだよね」という話をきくこ とがある。研二曰く「そーゆーのって下らないよね」 とのこと。が、私たちに話をきかせてくれた地元 の男性はそういうことを一切口にはしなかった。た だひたすらに歴史的なこの踊りの意味を強調すると 同時に今の自分たちの生き様とこの芸能を重ねあわ せて捉えているようだった。
 とはいえ、佃島の将来も安泰といえるかどうかは わからない。周辺は"大川端リバーシティ"をはじ め、高層マンションが増えてきている。昔ながらの 住民も高齢化がすすんでいるのではないだろうか。 保存会の組織はどうなっているのだろう。高層マン ションの新しい住人たちに「江戸っ子の心意気」は 通じるだろうか。しかしよそ者に対する寛容度はけっ こうあるように思う。「広めていってくれたら」と いう言葉からもそのような思いが感じられた。
 今どこにいっても「ドラエモン音頭」とか「東京 音頭」で盆おどりをやっているところは人が集まら なくなっているらしい。そういう曲を導入した当初 はより広い層の参加をみこんでいたのだろうけれど も、これから20年、30年先を考えた場合にどちらが 残るかといえば「佃島」っぽいもののほうだと私は 思う。
 あとは踊りの形態について。いったい何がスタン ダードな型なのかはよく分からなかったので、細 部については「昔の型を残しているのか必ずしもそ うではないのか」といった点は判断しようもない。 が、へんにシナをつくったりもせず、派手に跳ねた り大股になったりしていないところは、なんとなく 古い感じをかもしている。また、謎のなのは、土地 柄から言えば三味線や笛の名手が山ほど周りにいる 地域のはずなのに、風流化をすすめず太鼓ひとつで 続けている点。私はこの点がとても良いと思うのだ が、なぜこのようになっているのだろうか。
 それから、東京出身で岩手在住だと「民俗芸能に ついて東京は岩手に劣る」みたいな話になりがちで、 肩身の狭い思いをすることがある。けれども、佃島 の盆踊りがあるから「私は東京出身です。東京の芸 能はかなりいけてます」とこれからは胸を張って言 える。まあ、そんなもので張り合う必要はぜんぜん ないんだけど、気持ち的に拠り所があるというのは いいものだ。