達谷窟毘沙門堂觀桜會 奉納神楽
期 日 平成十四年四月二十九日(祝)
場 所 達谷西光寺御供所前特設舞台
番 組
式 舞 御 神 楽
神 舞 岩 戸 入
段 事 田村三代記(全曲)
奉 納 達谷窟毘沙門神楽
演目解説
御神楽(鶏舞)
式舞第一番の舞とされ、その後「翁」「三番叟」「岩戸開」などが舞われるのが一般的です。この地方の神楽組ならどこでも伝承していますが、土地ごとに特徴があり、神楽組によって鶏舞とか御神楽とか呼び方が違います。達谷では古くから「御神楽」と呼んで、その芸風を大切にしてきました。にぎやかで姿が美しい舞いです。
※ 舞の意味
昔、日の神のアマテラスオオミノカミが、訳あって天の岩戸にお隠れになって世界がまっくらになってしまった時、たくさんの神様が岩戸の前に集まってお祭りをしました。そして、太陽を呼ぶ鳥といわれる鶏をたくさん集めて鳴かせ、また、舞の上手なアメノウズメノミコトという女神が岩戸の前で面白おかしく舞ってお祭りを盛り上げました。
お祭りの様子が気になったアマテラスオオミノカミが岩戸から再び姿をあらわすと、ぱっとあたりが明るくなりました。すると、
夜明けを待っていた鶏が一度に喜んで舞い踊ったということです。その様子を舞にしたのが鶏舞だといわれています。
ほかに、鶏舞は日本の国を産んだお二人の神様が仲良く遊ぶ様子を、おんどりとめんどりになぞらえたものともいわれます。
岩戸入
昔、日の神アマテラスオオミノカミは、行いの乱暴な弟のスサノオノミコトにすっかり困り果てて、天の岩戸おかくれになりました。すると、明るかった世界がまっくらになり、それはもう大変なことになりました。それまで太陽の光がきらいで、暗いところにかくれていた、たくさんの魔物どもがあばれだしたのです。
このことを心配したたくさんの神様が、岩戸の前に集まりました。悪魔に城を奪われてしまったツクヨミノミコト(月読命)とヒヨミノミコト(日読命)の二神も天の岩戸へと急ぎますが、途中で道がわからなくなってしまいました。
その時、あの世とこの世の境にいらっしゃるクナドノカミ、サルタヒコノミコトに出会います。サルタヒコノミコトは、十九万八千歳という長生きの神様です。サルタヒコノミコトは二神に天の岩戸までの道のりを教え、ともに岩戸へと向かいます。
田村三代記
初代田村
あおによし、奈良の都の栄えし昔のこと、摂津八上山にて星の精を受けた田村利春。その怪奇なる誕生の後、異常なる成長をとげ、七歳にして習わぬ書を読み、吹けば天女が天下る程の笛の上手と、国中に名声が響き渡った。
しかし利春は、秘曲の天覧を拒んだことから、帝の逆鱗にふれ、加賀越前の境「春日山」に流される。そこで慰みに奏した笛の音に魅かれあらわれた美女は、繁ヶ池に住す竜女の化身であった。
昵懇となった利春と竜女、その後竜女は身籠もり、産屋に入って百日百夜の往来を禁じたが、利春は九十九日目にして約束を破り産屋をのぞきみると、大蛇が赤子(大蛇丸)を抱いている。竜女は、神通の鏑矢を形見に大蛇丸を利春に託し消え去った。その後、帝に赦され利春は、我が子を連れて都へ帰っていく。
二代田村利光(利光と悪玉)
利春の子大蛇丸は成人して田村利光と名乗った。今瀬が淵に出没する悪竜退治を命ぜられた利光は、朝廷より宝剣素早丸を賜り勇躍今瀬が淵に出陣、激闘の末に母の形見「神通の鏑矢」で悪竜を討ち取る。ところがこの悪竜の正体こそ、自身の生みの親の竜女と知って平伏号泣する。
その後、奥州の兵乱鎮撫に赴いた利光は、九門長者の屋敷で悪玉に出会う。もとは高貴な公家の姫だった悪玉、信濃善光寺詣りの途次災難にあって流転流浪の末、下女に身を落としていたのである。奥州を平定した利光は、悪玉にあの神通の鏑矢を与えて帰還。その悪玉の胎内に三年三月宿った後、誕生したのが千熊、後の三代利仁だった。
幼い千熊は、父会いたさに長い道行を経て上洛し、名を偽って父の屋形に奉公する。千熊の異常な才能を見た利光に本名を問われ、形見の鏑矢を取り出し親子の名乗りが果たされる。千熊は元服して利仁と名乗り、母悪玉も田村御前とて晴れて都入りとなる。
三代田村
時は移って平安の昔、都の空を怪しい光り物が飛び交い略奪を繰り返すという異変が起こる。天竺天魔王の娘立烏帽子が鈴鹿山に天降り、日本国を転覆せんとの企みと判明し、田村三代将軍利仁は、大軍を率いて鈴鹿に向かう。
しかし敵の行方は知れず、利仁一人が残って、立烏帽子の出現を神仏に祈ると異界へと導かれる。立烏帽子は、利仁を招き入れて和睦を申し出た。奥州の鬼神大嶽丸に助力を求めたが返事もなく、かえって利仁の武勇に惚れて心変わりしたというのだ。意外な展開に思案した末、利仁は立烏帽子と和睦して夫婦となり、小林という娘も生まれる。
その後、利仁は機を見て妻子と上洛。利仁の仲立ちで朝廷とも和議が成り、利仁と立烏帽子は、奥州達谷窟に住む日本最強の鬼神大嶽丸の退治を命ぜられる。先に奥州に赴いた立烏帽子は、大胆にも大嶽丸を口説き、偽って妻になると妖術で大嶽丸の神通力を弱めることに成功。利仁が到着して、裏切りに気付いた大嶽丸は、魔界霧山天上へと逃走するが果たせず、箆嶽のきりんが窟に逃げ込み、入口を塞ぎ閉じこもる。利仁は、観世音菩薩の力を借りて窟を開き、めでたく大嶽丸を退治する。
達谷窟毘沙門神楽
平泉町の達谷地区に伝わる神楽は、江戸時代達谷村の鎮守だった窟毘沙門堂の奉納神楽として、西光寺脇院で羽黒派修験の鏡覺院により舞われていました。窟毘沙門堂奉納神楽の歴史は古く、寺に伝わる獅子頭(権現)は室町時代の作と思われることから、中世にさかのぼる県内屈指の古い芸能でした。
明治維新で修験の制度は廃止され、神楽は村人たちによって伝えられることになり、それにあわせて伝統的な修験の舞いはすたれ、より演劇的要素の強い、いわゆる南部神楽に変化していきました。
東山町田河津出身で神楽の天才師匠といわれた佐藤金治郎翁が、度々達谷に訪れて交流したといい、明治から大正にかけての南部神楽成立期に達谷の神楽組が果たした役割は大きなものだったようです。
達谷には、第二次大戦まで二つの神楽組があり、毘沙門堂の例祭には競って演じたということですが、戦時中の舞手不足、戦後の混乱によって活動が停止しました。
昭和四十六年、伝統の灯を絶やすまいと地区の青年たちが立上り、かつての舞手から神楽を伝授して達谷神楽保存会を結成しました。奉納神楽も再開されましたが、時代の変化もあって活動が停止してしまいました。
しかし、なんとかして芸能を後世へ伝えるべく、昭和六十一年から主に地区の幼稚園児を対象に伝承活動を再開したのがきっかけとなり、地区の女性も加わって名称を達谷窟毘沙門神楽とあらためて以後、活動も十年をこえ、かつての幼稚園児たちが今ではりっぱに成人して、次代の伝承活動にもようやく希望が持てるようになってきました。
本日の奉納神楽、どうぞ最後までごゆっくり鑑賞下さるようお願い申し上げます。